“紀州のドン・ファン”と呼ばれた和歌山県の資産家が無くなった事件について、この資産家の元妻が逮捕されました。

資産家が残した遺産は13億円以上あるといわれており、元妻はこのお金を手に入れるため、資産家を自らの手で葬り去ったということらしいです。

せっかく13億円もの資産を持っていて、さらに年の離れた若い人と結婚できたとしても、死んでしまったら何の意味もありません。

大金持ちで若い女性と結婚しているなんて、世間的にはどこからどう見ても成功者です。しかし、たとえ成功者だったとしても、生きている間に手に入れたお金を使うことなく死んでしまっては、大金を稼いだ意味がありません。資産家なので自分の事業だけで稼いだわけではなく、おそらく不動産運用など不労所得のような形で手に入れたお金が大半だとは思いますが、それでも他人事ながら「なんのためにお金を持っていたんだろうな…」と可哀そうな気持ちになります。私のような弱小一般市民から哀れみの目で見られることになるなんて、紀州のドン・ファンも想像できなかったでしょう。

年寄りになって大金を持っていても意味がない

お金は誰にとっても同じだけの価値を持っているように見えますが、実は違います。

20歳の若者が持っている100万円と、70歳の老人が持っている100万円は価値が異なるんです。

若い人が持っている100万円は食べたいものを買うことに使えて、旅行など行きたい場所へ行くために使うことができて、欲しいものを買うことに使えて、やりたいことにすぐに使うことができるのでとても価値の高い100万円です。

ところが老人が100万円を持っていたとしても、こうはいきません。

食べたいものがあったとしても胃の調子が悪いので好きなものを好きなだけ食べることはできず、持病や定期的な透析などがあるため旅行にいくことも叶わず、欲しい物など何もなく、やりたいことも特になく、手に入れた100万円は銀行残高を増やすだけで社会的には何の役にも立っていません。死に金です。

もちろん稼ぎたくてお金を稼いだり増やしたりしたのではなく「やりたいことをやっていたら、いつのまにかお金が増えていた」というのであれば良いのですが、ただ単にお金を増やすだけ増やしただけの人生を送り、最後はお金を使えないまま死んだのであれば哀れ、いや、惨めとしか言いようがありません。

お金は使わなければ意味がない

お金って稼いだり増やしたり、あるいは詐欺や投資の失敗で”失う”ことはわりと簡単なんですが、『使う』となると案外難しいものです。

お金を手に入れるために少なからず時間を使ったり労働をしたり嫌な思いをしたりしてきたわけですから、ドブに捨てるような使い方ではなく、身近な人を喜ばせたり自分自身を喜ばせたり…納得できる使い方をしたいじゃないですか。

それなのにお金の使い方を誤り、死ぬまでお金を使えずに亡くなる人がいるのを見ると何とも言えない気持ちになります。

私は株式投資で資産運用していますが、労働で稼いだお金や運用で増やした所持金を死ぬまでには全部使い切りたいと考えています。紀州のドン・ファン事件を見て、この思いをより一層強くしました。

お金は体験に変えなければ ただの数字。死に金と同じです。死ぬまで使い切れないくらいたくさんのお金を手に入れることは、それはそれで素晴らしいことです。しかし、手に入れたお金を体験や知識、便利さ、好きな人と過ごす時間など別のものに交換し、豊かな人生を歩むことも大切だと感じました。

お金は「持っていれば便利な道具」にすぎず、道具は使わなければ価値を持ちません。お金は持ってれば嬉しいコレクションではないので、適度に使ってもっと別の価値あるものに交換していきましょう。資産運用には不利になりますが、とくに若い方はお金を増やすことよりも「お金を使うこと」に注意を向けた方が幸せな人生が送れるはずです。

繰り返しになりますが、70歳で13億円も持っていて若い奥さんがいたとしても、死んだら何の意味もありません。

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